電子が覚えていること、人が忘れていくこと

電子がすべてを覚えている現代、人間は忘却を深めている。デジタル記録の永続性と、脳の動的な編集機能が衝突する時、「自己の定義」と「忘れる権利」はどこへ向かうのか。

電子が覚えていること、人が忘れていくこと
Image: Whisk(Imagenを利用)による生成

完璧な記録と不完全な生

私たちは今、歴史上かつてない「記録の時代」を生きている。

かつて記憶は、日記や書物、写真といった意識的な「記録の営み」によって外部に預けられていた。しかし、その記録は依然として断片的であり、「生の全体」は脳という限られた物理空間に収められ、時間と共に曖昧になる運命にあった。しかし、現代社会において、私たちは日常のあらゆる断片を、スマートフォンという手のひらサイズの外部装置に委ねている。クラウドサービスは、何十万枚もの写真、過去のメールのやり取り、訪れた場所のGPS情報、さらには健康状態に至るまで、私たちの生のデータを忠実に、そして半永久的に「覚えている」。

デジタル技術は、人間が古来抱いてきた「忘却への抵抗」という願望を、見事に叶えたかに見える。

この状況こそが、記憶と記録をめぐる現代社会の核心的な問いとなる。電子がすべてを覚えているとき、人間は自らの記憶の役割を外部に委託し、忘却を深めているようにも映る。記録の忠実性が増すほど、個人の脳内の記憶は、その精密さを要求されなくなる。

電子の「覚えている」状態と、人の「忘れていく」営み。この二つの対立する現象は、単なる機能の違いではない。それは、生命と非生命、時間との関係、そして「自己」の境界線にまで関わる、「生きる」ことと「存在し続ける」ことの本質的な違いを私たちに突きつける。本稿は、「記と憶 Ki to Oku」というメディアの出発点として、電子による「記録」と人間による「記憶」の本質的な違いを探る。

電子の「記憶」はなぜ忠実なのか——記録の物質性と永続性

電子機器が「覚えている」と表現されるとき、それは人間の記憶とは全く異なる原理に基づいている。デジタル記録とは、情報の意味を保持するのではなく、情報を物理的な状態として固定する営みである。

データは、すべてが「ビット」という二値の信号で構成されている。このビットは、ハードディスク上では磁気の方向として、SSD上では電気を通すセルの電荷として、あるいは光ディスク上ではレーザーで開けられた微細な穴として、物質の物理的な状態へと固定される。

この記録の本質は、「再現性の追求」にある。記録技術の歴史——メソポタミアの粘土板から、パピルス、印刷物、そして磁気や半導体に至るまで——は、いかに情報を時間による劣化から切り離し、作者の意図通りに忠実に複製・再生するかを追求してきた歴史である。

デジタル記録の忠実性は、その非生命的な特性に由来する。情報は物質的な安定性によって支えられ、環境から隔離されれば、原理的には永久にその状態を保持できる。デジタル記録は「忘れない」のではなく、「忘れられないように設計されている」のだ。そこには、過去をそのまま未来へ転送したいという、人間の永続性への願いが凝縮されている。

人の「忘却」はなぜ必要なのか——神経科学が示す生の編集機能

一方、人間の記憶は、デジタル記録の永続性とは対極にある。人の記憶は、情報を覚える行為(記銘)、保持されている情報、そして呼び出す行為(想起)のどの段階をとっても、変化の可能性を内包した動的な生命活動である。

神経科学の視点から見ると、忘却は「情報の消失」ではなく、情報を維持するための、より積極的なプロセスである。脳は、記憶の保存・強化に関わる特定の酵素やタンパク質を抑制することで、新しい学習のためのスペースを確保し、あるいは過去のトラウマから身を守るために、記憶回路を能動的に編集しているのだ。

例えば、脳の主要な記憶器官である海馬の歯状回(Dentate Gyrus)では、新しい神経細胞が日々生まれる神経新生(Neurogenesis)が起きている。近年の研究は、このプロセスが、古い記憶の回路の再構築を促し、記憶を曖昧化する、いわば「記憶のダイナミックな再構築機能」として作用することを指摘している。つまり、私たちが「忘れる」のは、脳が壊れているからではなく、むしろ新しい知識と環境への適応という「生きるための最適化」のために、脳が能動的に行っている編集作業なのである。

人間の記憶は、目の前の世界を理解し、意味を与えるための動的な物語であり、過去を忠実に再現することよりも、現在と未来の生にとっての有用性を優先する。忘却は、その物語を新鮮で使いやすい状態に保つための、欠かせない「編集機能」なのである。

記憶のハイブリッド化——自己の境界線が揺らぐとき

技術が記憶を代行する現代において、私たちの「自己の記憶」は、もはや脳内だけの閉じた領域に留まらない。スマートフォン、PC、クラウドといった外部装置は、認知心理学でいう「外部記憶(External Memory)」として、私たちの身体の一部、思考の延長線上に位置付けられつつある。

これは「記憶のハイブリッド化」と呼べる状態である。

この現象を科学的に実証したのが、後に「Google効果(Google Effect)」または「デジタル健忘症(Digital Amnesia)」と名付けられた一連の研究成果である。コロンビア大学の心理学者ベッツィー・スパロウ(Betsy Sparrow)らによる2011年の研究をはじめ、多くの実験で、情報がインターネット上に存在することを知っているだけで、脳がその情報を内部で保持しなくなる現象が示されている。脳は、詳細な情報や事実の断片を内部に記憶する代わりに、「その情報をどこで見つけられるか」というアクセス経路を記憶するようになったのだ。

このハイブリッド化は、人間を解放した側面がある。この現象を認知的効率化の観点から捉えるならば、脳は、瑣末なデータ保持の役割から解放され、より抽象的な概念の理解や、創造的な問題解決といった、高次の認知活動にリソースを集中できるようになったと考えられる。

しかし、同時に深刻なリスクも生じている。外部記録の喪失——クラッシュ、サービス終了、アカウント凍結——は、単にデータが消えるだけでなく、自己の重要な部分が失われることに直結する。記憶の境界線が曖昧になることは、私たち自身のアイデンティティを構成する「自己の定義」が、もはや脳内に閉じていないという事実を突きつける。その外部に委ねられた記憶が、私たちの「自己」の全体性を脅かす深刻なリスクとなりうるのか、この問いに私たちは向き合う必要がある。

忘れる権利と記録の責任

電子がすべてを覚えている時代に、私たちは「いかに賢く忘れるか」という、これまでにない倫理的な課題に直面している。

半永久的に残るデジタル記録は、時にデジタルタトゥーという形で、過去の失敗や軽率な発言が固定されるリスクを突きつける。忘却が、人間の生を「現在」に適合させ、精神的な回復を可能にするという事実は、記録技術の進化が、私たちから最も重要な人間的な自由の一つを危うくしつつあるのではないか、という問いを際立たせる。

技術開発の責任は、単にデータを忠実に守るだけでなく、「忘却のデザイン」を人類に提供することへと拡大する。いつ、何を、どれくらいの期間、どういう条件で消去可能とするのか。この問いは、記録媒体の技術論であると同時に、社会の倫理規範、そして個人と時間の関係を問い直す根本的な問いでもある。

記録と記憶は、対立する概念ではない。それらは、時間の中で人が自己と世界を定義しようとする、相互に影響し合う動的な営みの一部である。このサイト「記と憶 Ki to Oku」は、この新しい時代の境界線と相互作用を、科学と文化、技術と倫理を横断しながら多面的に観察していく。

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