忘れる技術——情報に翻弄されない「賢い脳」の使い方

情報過多の時代、脳の課題は「覚える」ことではなく「賢く忘れる」ことだ。忘却を能動的な「剪定機能」と捉え、情報に翻弄されない賢い脳の使い方を、神経科学から解説する。

忘れる技術——情報に翻弄されない「賢い脳」の使い方
Image: Whisk(Imagenを利用)による生成

覚えることから「賢く忘れる」ことへ

情報化社会は、人類が長年夢見た「完全な記録」を実現した。スマートフォンやクラウドは私たちの生活を隅々まで記憶し、記録の永続性は事実上、個人の生を超えるものとなった。

しかし、技術が記憶を代行する一方で、私たちの脳という限られたリソースは、情報過多という新たな生存課題に直面している。脳という限られたリソースにとって、真に重要な課題は「覚える」ことではなく、「いかに賢く忘れるか」という、現代の複雑な認知課題に対応するための、より高度な問いへと転換している。

本稿は、忘却を「情報の減衰」や「保持の失敗」と見なす従来の学術的な視点を転換し、情報過多社会を生き抜くための、脳に備わった「忘れるメカニズム(技術)」を、神経生理学の視点から解き明かす。

忘却は劣化ではない——能動的な「剪定機能」

古くは哲学者から、忘却は、時間による記憶の「劣化」であり、抗うことのできない「自然な現象」だと受け入れられてきた。しかし、近年の神経科学の知見は、この見方を完全に覆している。

神経科学の視点から見ると、忘却は「情報の消失」ではなく、情報を維持するためのより積極的なプロセスである。脳は、記憶の保存・強化に関わる特定の酵素やタンパク質を抑制することで、新しい経験や知識を取り込むためのスペースを確保し、あるいは過去のトラウマから身を守るために記憶回路を能動的に編集しているのだ。

忘却とは、脳が未来の生のために行う、合理的な「剪定(せんてい)」であり、環境への適応を促すための能動的なプロセスである。

認知的負荷の時代——稀少なリソースの解放

なぜ脳は、わざわざエネルギーを使ってまで忘れる必要があるのだろうか。それは、記憶容量の限界ではなく、処理の「認知的効率化」を最優先しているからだ。この効率化こそが、脳の「認知的負荷(Cognitive Load)」を管理するための必須戦略なのだ。

人間が一度に処理できる情報の量、すなわちワーキングメモリ(作業記憶)の容量は極めて少ない。認知心理学では、脳が一度に意識的に保持できる情報単位を「チャンク」(意味のある情報の塊)と呼び、その数はごくわずかであると指摘されている。情報過多の環境下では、不必要な情報や古い記憶がこの稀少なリソースを占有し、思考のフリーズや判断ミスの原因となる。

忘却は、この貴重なワーキングメモリを解放し、リソースを最も重要な高次の認知活動——推論、創造性、抽象的な問題解決——に集中させる。忘却は、新しい知識や環境を受け入れるための「適応」のコストを下げる、合理的な生存戦略なのだ。

忘却のメカニズム——意図的に「忘れる」脳の秘密

では、脳はどのようにして記憶を能動的に「編集」しているのだろうか。忘却を司るメカニズムは、大きく分けて「構造的編集」と「能動的抑制」という二つのプロセスに注目できる。

一つは、海馬の歯状回(Dentate Gyrus)で新しい神経細胞が日々生まれる「神経新生(Neurogenesis)」である。この新しい細胞の統合は、既存の記憶回路の結びつきを弱め、古い記憶を曖昧化させる「記憶の再構築機能」として作用する。脳は、新しい情報を刻むために、古い情報を意図的に不安定化させているのだ。これは、私たちの意識とは無関係に、常に脳内で行われている自律的な記憶の最適化プロセスである。

そしてもう一つ、注目すべきは、この自律的な忘却のプロセスを、人間が意図的に利用・制御する可能性を示す知見である。それが「意図的な忘却(Directed Forgetting)」だ。この現象は、2000年代以降の心理学者マイケル・C・アンダーソンらの神経科学的研究によって詳細に解明された。彼らの研究によれば、特定の記憶に対し「二度と思い出さない」という抑制の意図を持つことで、脳の前頭前野(Prefrontal Cortex)が、その記憶の想起に必要な海馬の活動を積極的に抑制するのだ(※Anderson & Hanslmayr, Trends in Cognitive Sciences, 2014参照)。この抑制メカニズムは、過去のトラウマ的記憶からの解放や、学習における古い知識による干渉を防ぐ上で、決定的な役割を果たす。

この「忘れる意図」の対象として最も適しているのは、すでに陳腐化した知識や、新しい知識体系を学ぶ上での干渉源となる古い情報である。たとえば、新しいプログラミング言語を習得する際、以前の言語の構文が混ざってしまう「干渉効果」がある。この干渉源となる古い知識に対し、意識的に「二度と思い出さない」という意図を向けることで、前頭前野がその記憶の活性化を抑制し、新しい情報の定着を効率化できるのだ。

注意すべきは、この効果は一度の決意で完結するのではなく、意識的に想起を避け、積極的に「検索しない」という努力を継続することによって強化されていく点である。逆に、忘れたい記憶をあえて頭の中で反芻したり、思い出そうとしたりする行為は、その記憶を強化してしまう。この「意図的な忘却」の真価は、無意識に湧き上がる想起の衝動に対し、前頭前野からのトップダウン制御によって「抑制(サプレッション)」を発動できる点にある。脳は利用されない記憶の結びつきを弱めていくため、「意図的な忘却」は継続的な認知制御を伴う技術だと言える。

これらの知見は、忘却が「受動的な減衰」ではなく、「構造的な編集(自律的)」と「能動的な抑制(制御可能)」によって制御される、複雑なメカニズムであることを示している。

忘却を戦略として利用する

情報過多が常態化した社会において、私たちが目指すべきは、無限の外部記憶に頼りつつ、有限な内部記憶をいかに賢く使うかという戦略的バランスである。

脳は、忘れるというメカニズムを通して、私たちに情報環境への「適応」という技術を提供している。この「忘れるメカニズム」を理解し、その原理を能動的に活用することが、現代社会における新しい情報に支配されない「心の自由」への鍵となる。

たとえば、学習した直後に睡眠をとることで記憶の固定化を促す一方で、心理学的な研究で示されるように、あえて「忘れる訓練」を行うことで、脳の検索効率を高め、重要な情報のみを選別する能力を鍛えることができる。

忘却の技術を身につけることは、単に過去の情報を消し去ることではない。むしろ、それは脳の「剪定」機能を意識的に利用し、限りある認知リソースを「今」と「未来」のための課題解決に集中させる、冷静かつ合理的な行為だと言える。

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