脳を再現する技術:スパコン富岳が実現した900万ニューロンの精緻なモデル

スーパーコンピュータ「富岳」が、マウスの大脳皮質全体を仮想空間に再現した。900万のニューロン、260億のシナプスを持つ、世界最大級の精緻な脳モデルが誕生した。

脳を再現する技術:スパコン富岳が実現した900万ニューロンの精緻なモデル

世界最大級の仮想脳が誕生した

2025年11月、電気通信大学の山﨑匡准教授らの研究チームと米国アレン研究所(Allen Institute)の共同研究により、世界最大級の精緻な脳シミュレーションが実現された。スーパーコンピュータ「富岳」を用いて、マウスの大脳皮質全体を仮想的に再現したのである。

このシミュレーションは、900万のニューロン(神経細胞)、260億のシナプス(神経接続部)、そして相互に接続された86の脳領域を、デジタル空間で構築したものだ。ニューロンの樹状突起の形状から、シナプスの接続構造、そして電気信号の活動に至るまで、その形態と機能の両方を再現している。これは、動物の脳シミュレーションとしてこれまでで最大かつ最も精緻な「生物物理学的に詳細な」モデルである。

マウス全大脳皮質シミュレーション

研究チームは、このモデルを用いることで、「疾患において何が起きているのか」「特定の脳波のパターンはどのように形作られるのか」「てんかんの発作は脳内でどう広がるのか」といった詳細な問いを立て、その仮説を検証できるようになると期待している。これまで、こうした問いは実際の脳組織を使い、一度に一つの実験でしか検証できなかった。今や、それが仮想空間で繰り返し検証できるようになる。症状が現れる前に問題がどのように始まるかを突き止め、デジタル環境で安全に新しい治療法を試すことが可能になる未来に、一歩近づいたのである。

脳を構築することで理解する

このプロジェクトの核心は、「脳を理解する」ことが「脳を構築する」ことと等しくなるという、新たなフロンティアの開拓にある。

「富岳」は、毎秒40京回を超える演算性能を持つ世界最速級のコンピュータである。この途方もない計算能力を用いて、アレン研究所が提供した実データに基づく設計図と、電気通信大学が開発した神経回路シミュレータ「Neulite」により、生きた細胞さながらに発火し、信号を送り、情報を伝え合うニューロンが仮想空間に再現された。

シミュレートされたマウスの大脳皮質を観察することは、まるで生物学的な活動をリアルタイムで見ているかのようだという。ニューロンから伸びる樹状突起、シナプスの活動、そして細胞膜を行き交う電気信号の変動に至るまで、脳細胞の実際の構造と振る舞いがデジタルの中に捉えられている。

アレン研究所のアントン・アルキポフ(Anton Arkhipov)博士は、「これは技術的な金字塔であり、はるかに大規模なモデルも可能であるばかりか、高い精度とスケールで実現可能だという自信を与えてくれました」と語る。長期的な目標は、全脳モデル、将来的にはヒトの脳モデルの構築だという。

「記と憶」の視点:脳をデータ化する技術の到達点

この研究が示すのは、生物学的なシステムを極めて精緻にデジタル化する技術が、実用的な段階に達したということである。

従来の脳研究は、実際の生体組織を用いた実験に制約されてきた。一つの仮説を検証するために、多くの時間と資源を必要とし、観察できる範囲も限られていた。しかし、生物物理学的に詳細な脳モデルが構築されたことで、研究者は仮想空間で無数の仮説を検証できるようになる。

この研究の鍵は、その精緻さにある。900万のニューロン、260億のシナプス、86の相互接続された脳領域。単なる抽象的なモデルではなく、ニューロンの樹状突起、シナプスの活動、細胞膜を行き交う電気信号の変動に至るまで、生物物理学的な詳細を再現している。山﨑准教授は「神は細部に宿る」という言葉を引きながら、生物物理学的に詳細なモデルにこそ、脳の理解への道があると語る。

86の脳領域には、前頭前野や側頭葉といった記憶に関わる領域も含まれている。アルツハイマー病のシミュレーションが可能になるということは、記憶障害のメカニズム解明にも寄与する可能性を示している。脳の構造と機能を精緻に再現することで、記憶がどのように形成され、保持され、失われていくのかという問いにも、新たな視点を提供できるかもしれない。

アルキポフ博士が述べるように、この技術の先には全脳モデルの構築という目標がある。サルの脳であれば、富岳のフルスケールでシミュレーション可能だという。一方、ヒトの脳全体を顕微鏡レベルでシミュレートすることは、依然として長期的な課題である。脳という最も複雑な生物学的システムを、観察するだけでなく、実際に再現することで理解しようとする試みが、確実に前進している。

情報源: 【ニュースリリース】世界で最も精緻な仮想脳シミュレーションの一つが脳研究のあり方を変えようとする~毎秒数千兆回の計算能力を持つスーパーコンピュータでマウスの大脳皮質をシミュレート~ | ニュース | 国立大学法人 電気通信大学

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